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男前!
おはようございます。大変ご無沙汰いたしました。マツダイラです。
最近、ネタに困っていまして更新が遅れていました。
ご愛読者には大変ご迷惑をおかけいたしますが、もう少しこんな状況が
続くかと思います。ご了承ください。


いつの時代にもイイ男というのはいたもので、そんな武将を集めてみました。

まずは、源平の時代からは源義仲が代表として挙げられます。
義仲は平家を追って都に上りましたが、乱暴狼藉を働いたので都人の評判は
大変悪く、田舎者扱いされていました。それでも「色白く、見目良き男」という
記述が残るほどでしたので本当に美男だったのでしょう。
これに対して、都で人気者だった源義経は「反っ歯の小男」という記述が残されています。

時代は進んで、戦国時代になるとやはり織田信長でしょうか。若い頃は「尾張一」と
いわれた美男だったようで、頭はよく、武芸も秀でて、いまでいうような不良っぽい少年
であり、さらに子供ながら城主であったのですから人もうらやむという状況だったのでは
ないでしょうか。織田家は信長の妹のお市も戦国一といわれるような美女であり、美系家族
でした。

武田信玄の跡取りである武田勝頼も色白の美男だったようです。武田氏が天目山の麓で
滅んでいくとき、北条家から嫁いで来た後妻とともに自刃する姿は美男であるからこそ
絵になるのでしょう。

上杉景勝の家老であった直江兼続も美男だったようで、もとは謙信の寵童ではなかったか
といわれています。兼続は景勝が上杉家を継承したあと家老として活躍し、上杉家が
秀吉によって会津120万石に移封されると、米沢で30万石という破格の待遇を得るほど
の人物でありました。兜の前立は武将には大変珍しく、「愛」という字をつけており、
美男であるから似合っていたのでしょう。


今回はここまで、次回はいつになるかわかりませんがお楽しみに。

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言い訳
おはようございます。マツダイラです。


豊臣秀吉が権力を握った後のお話です。


秀吉が徳川家康に対して、ある寺院に一万石か二万石を寄進するように命じました。
家康はいつものケチが出たのか、数百石しか寄進しませんでした。
すると、その寺院から秀吉にクレームがいったのでしょう、秀吉は「どうして
命令を聞かないのか」、と家康を詰問しました。
家康はそれに答えるため、無骨で口下手な家臣を使者として送り込みました。
その家臣は、大坂城か伏見城に行き、秀吉の前で奉行たちから同じように詰問されて
困ったことでしょう。
ついには、「恐れながら」ともろ肌を脱ぎ、傷だらけの身体を見せて「これにて五千石」
といって平伏しました。
それを見た秀吉は、「見事な申し開き」といって不問にしたのでした。

これは、家康の家臣が命をかけて何度も戦場で働き、傷ついた結果やっと五千石の領地を
貰えるようになった。それなのにたいした努力もしない寺院に対して何万石も寄進する
というのには納得がいかない、という意思表示であったのを秀吉が理解して許した、という
ことです。


今回はここまで、また次回をお楽しみに。

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サバイバル
おはようございます。マツダイラです。


戦国時代は徳川家康が江戸幕府を開いて終結しましたが、それまでの為政者で
あった、織田信長や豊臣秀吉の家臣はどうなったのでしょうか。


織田信長の家臣で江戸幕府でも大名として存続できたのは、前田家・池田家・
丹羽家・浅野家・森家・山内家・細川家などであります。
このうち、細川家は尾張の出身ではなく、信長との縁もそれほど深くない間柄です。
どちらかというと秀吉に引き立てられたといったほうがいいのでしょうが、
きっかけは信長が与え、信長から領地をもらっていたという立場でありましたので
こちらにあげております。
これらの家は江戸幕府成立後も多くは大大名として存続し、明治維新を迎えました。
滅んだのは、柴田勝家・佐久間信盛・明智光秀・豊臣家などありましょう。
柴田・明智は秀吉によって、佐久間は信長自身で、豊臣家は家康によって消滅しました。


秀吉の家臣では、黒田家・蜂須賀家・藤堂家、小大名ですが、脇坂家・木下家・片桐家
などが江戸幕府後も存続しました。
このうち、蜂須賀家・黒田家はもともと秀吉の家臣ではなく、形の上では
信長の家臣でありました。山内家もこちらのはうがいいかもしれません。
藤堂家も以前は秀吉の弟の秀長の家臣でありましたので秀吉の子飼いという
立場ではありませんでした。
逆に滅んだのは、加藤清正家・福島家・加藤嘉明家・石田家・増田家などで、
両加藤・福島は江戸幕府成立後に改易となり、石田・増田は関ヶ原の合戦で消滅
しました。これらは全て秀吉の子飼いといえる大名でありましたが、関ヶ原で
活躍した加藤・福島などでも江戸幕府から見れば危険分子であったのでしょう。
とにかく秀吉の子飼いで残ったのはごくわずかでありました。


今回はここまで、また次回をお楽しみに。

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名前 その3
おはようございます。マツダイラです。


またまた、前回の続きで、名前の最終回です。


徳川家康は名前を何度も変えています。元服後、最初に名乗ったのが「元信」です。
元信の「元」は当時人質であった先の今川義元の「元」をもらったものです。
では「信」はといいますと、武田晴信(信玄)からもらったものだそうです。
その後「元康」と変えました。「康」は家康の祖父にあたる松平清康からもらいました。
松平清康は、松平家を戦国大名に押し上げた人物で、大変勇敢で、そのおじいさんに
あやかろうとしたそうです。
家康自身の名を与えた例としては、家臣の榊原康政の「康」とあとは、異父弟に与えた
くらいでしょうか。家康の場合は「松平」の姓を許すことが多かったようです。
これは、名前は一代限りですが、姓になりますとずっと先まで親戚のように思っている
という意志の表れとなるのでしょう。
江戸時代で松平の姓を許されたのは、家康の異父弟の家系である久松氏は完全に松平姓になり
三代将軍家光の異母弟である保科氏も松平氏となりました。これ以外では外様大名である
薩摩の島津氏や筑前の黒田氏、安芸の浅野氏、土佐の山内氏なども松平姓を許されており、
これらの諸大名の当主は代々、時の将軍から名前も一字もらうことが慣例化されていました。
徳川家の家臣では有名な柳沢吉保も松平姓を許されております。
江戸時代の将軍で最も多く名前を与えたのは十一代将軍の家斉(いえなり)でしょう。
なにせ、将軍の在位が最長でありましので江戸時代の末ごろには斉・・という名前が
氾濫しています。水戸斉昭・島津斉彬など幕末期の大名の名前をご覧になる機会があれば
ご納得いただけると思います。


このように、武将の名前もその当時のいろいろな関係があって決められているものです。

今回はここまで。また次回をお楽しみに。


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名前 その2
おはようございます。マツダイラです。


前回の続きです。


毛利元も時の将軍であった、十三代足利義の「輝」の字をもらっています。
一時、上杉謙信もこの「輝」の字をもらって「長尾虎」と名乗っていました。
毛利輝元の場合は献金して「輝」をもらいましたが、上杉謙信の場合は、三好・松永に
圧迫されていた義輝を一時的に救ったということでその褒美としてもらいました。
ちなみにこの義輝という将軍は剣豪でも有名で、塚原ト伝の高弟の一人でありました。
三好・松永の軍勢に攻められたとき、最後の働きで何人もの兵を斬り倒したそうです。
その後謙信は、上杉家を相続して前当主であった上杉憲から一字をもらって、
「上杉虎」と名前を変えました。

豊臣秀吉は根っからの家来が少なかったので「秀」の字を多く与えています。
例えば子供の頼、養子にした羽柴勝・豊臣次・小早川秋・結城康、
子供同然の宇喜多秀家、毛利家の秀元・秀就などで、徳川家康の跡継ぎの忠も
秀吉の「秀」の字をもらっています。では「忠」の字はといいますと、これは家康の
重臣で、武勇抜群の酒井次からもらったものです。
その豊臣秀吉はもとは木下藤吉郎であったのを、織田家の重臣である田と丹
合わせて「羽柴」姓としました。


今回はここまで。もう1回続きます。お楽しみに。

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